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幸せな報復

第20章 夏が終わって

 その名を口にした瞬間、空気が凍りつく。 
「仁美。裏切り者。人間になろうとした愚か者。あの女の末路を知っているくせに……」
 恵美の中に、黒い影がじわじわと広がる。記憶ではない。血に刻まれた教訓。掟。
 けだもの族に背を向けた者は、抹消される。それは脅しではなく、DNAに刻まれた鉄則。
 「あなたも同じ運命をたどるつもり? それとも……」
 エルザの囁きは甘く、堕落の果実のように芳醇だ。
 「私と一緒に、目を覚ます?」
 心が軋む音がした。恵美は立ちすくみ、答えを出せないまま、ただ胸を押さえる。そこには確かに、彼女の知らぬ鼓動があった。誰かが、そこに棲んでいる。

 電車の揺れが、やけに静かだった。
 恵美はその違和感に気づきながら、男の手が腰に触れた瞬間、条件反射のように体を固くした。

「……またか」
 唇が無意識に呟いた。
「今日はきっちり、やらせてもらうわよ」
 手首を掴む。それから――叫ぶ。それが"日常"の手順だった。
 けれど、その瞬間、男が口を開いた。
「すみません、あの……」
 声が、妙に穏やかだった。
「僕の……ネームプレートが……たぶん、あなたの服に……引っかかってしまって……」
「は?」
 恵美は男の顔を睨みつけた。目が合った。 その時だった。
(……寝てる……?)
 視界が、ぐらりと傾ぐ。白いシーツ。薄暗い部屋。隣には――その男。
 寝息を立てている。
(何……で……?)
「どうしてそんなに驚いてるの?」
 右耳の奥で、エルザが囁いた。
「あなたの"日常"なんて、本当は最初から壊れてたんだって……気づいてたでしょう?」
「違う……こんなの夢……これは幻覚……!」
「じゃあ、いつからが夢? いつからが現実?」
 男が目を覚ました。半開きの瞳が、恵美を見た。

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