テキストサイズ

幸せな報復

第20章 夏が終わって

 二つの魂が一つの器に宿っていた。夜と昼、月と太陽。互いの光が重なり合うことはない。
 一方が目覚めれば、もう一方は深い眠りに落ちる。だが彼女たちは、ひとつの海――記憶の海――を共有していた。広大で、暗く、そして冷たい海。互いの波は重なり合いながらも、その深みに触れることはできなかった。
 表の人格が体験を刻み込むとき、裏の人格はその在り処を知らぬまま眠る。記憶はある。だが、鍵がなければ扉は開かない。
 「……何も、思い出せない。昨日のわたし、どこにいたの……?」
 その声に、どこか冷たい響きが返る。
 「忘れていいのよ、恵美。あれは、あなたには重すぎる。」
 声の主はエルザ。数万年の血の記憶を受け継ぐけだもの族の影。恵美の中に眠り、時折目を覚ますもう一人の「彼女」だった。
 「どうして、あなたがわたしの身体を勝手に……!」
 「勝手? これは“私たち”の身体よ。あなたはただ、人間として生きる夢を見ていただけ。」
 記憶の海に無数の箱が沈んでいる。けだものの血が、ある体験を刻み込む。触れられた感覚。疼くような高揚。五感に焼きついた記憶は、深い場所へ封じられたまま、鍵を待ち続ける。
 「それを、快楽だって言いたいの……? わたし、そんな風に思ってない……!」
 「でも、身体は覚えているわ。あの手、あの体温、あの鼓動……あなたの皮膚が、ちゃんと反応していた。」
 恵美は目を閉じ、胸を押さえる。浮かぶのは、匂い。獣の匂い。理性では理解できぬ衝動。
 「いや……そんなもの、わたしには関係ない!」
 「いいえ、関係しかないのよ。だって、あなたの中に流れているのは、私たちの血。けだもの族の、抗えぬ本能。」
 エルザの声は低く、ゆっくりと恵美の心を侵食していく。
 「狼男を見たとき、震えたでしょう? 鼻が熱くなって、喉が渇いたはずよ。あなたは“目覚め”に近づいている。」
 「わたしは……わたしは、仁美さんみたいになりたいだけなのに……!」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ