テキストサイズ

幸せな報復

第20章 夏が終わって

 アイドルを目指していた恵美にとって、平穏な日常は何よりも大切だった。
 しかし、彼女の中に芽生えたもう一つの人格――「けだもの族の恵美」にとっては、まったく違う価値観が存在していた。痴漢されることに幸福を感じるその人格は、今この瞬間に快楽を得られることこそが本当の幸せだと信じている。明日への希望や高尚な夢など、必要ないというのだ。

 人が何に幸せを感じるかに、善悪や大小、道徳的な尺度は不要なのかもしれない。ただ、本人が幸福と感じるかどうか――それだけが問題なのだ。

 あの朝まで、恵美は学園のアイドルとして、誇りと自信に満ちた日々を送っていた。空手で鍛え上げた強靱な体で全国空手道大会を制覇し、世界を目指すという野心もあった。それは確かな手応えを伴った、真っ直ぐな努力の果てにあった。

 だが、その栄光の裏で、彼女の中にはいつしか誰か――いや、自分自身の中の異質な何かが棲みついていた。それは、痴漢されることに歓びを見出す、もう一人の「恵美」だった。

 彼女の身体は一つだ。だが、心は二つに分かれ、互いに主導権を奪い合っている。思考の領域が分かれているだけで、五感や筋肉の感覚は共有されている。だからこそ、その分断はやっかいだ。片方の人格が表に出れば、もう片方はその時の体感を感じ取れない。にもかかわらず、変化の痕跡は確実に、同じ肉体に刻まれていく。

 痴漢されることに嫌悪と悪寒しか感じなかったはずの恵美の心と身体は、少しずつ変わっていった。次第に、触れられることを待ち望むようになり、自分の変化に一喜一憂してしまう。
 そのたびに、彼女は自分自身に絶望し、気が狂いそうになるのだった。
エモアイコン:泣けたエモアイコン:キュンとしたエモアイコン:エロかったエモアイコン:驚いたエモアイコン:素敵!エモアイコン:面白いエモアイコン:共感したエモアイコン:なごんだエモアイコン:怖かった

ストーリーメニュー

TOPTOPへ