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幸せな報復

第20章 夏が終わって

 トラブルには動じない。
 たとえ、これから彼女の身に、いまだ経験のない汚辱にまみれた日々が始まろうとも――恵美なら、どんなピンチもチャンスに変えてみせる。
 たとえ異次元の世界が、恥辱に満ちた耐えがたい空間だったとしても。
 彼女は、変化によって生まれる不安さえも楽しみに変え、興奮していた。
 平常心とは名ばかりだが、彼女の“前向きさ”は本物だった。
「私は変わる……今日もばっちしよーっ、笑顔でーーいくぞぉー! いざ、出発ーーっ!」
 姿見の前で腰を左右に振りながら、恵美は右手で拳を作り、それを頭上に突き上げた。 そのまま腕を下ろすと、口角をきゅっと上げて、笑顔を作る。
「いいねぇー」
 自分の笑顔で、気持ちを持ち直す――それが、彼女にとって唯一の魔法だった。
 笑顔は心まで明るくする。これは母・義美から伝えられた、恵美の日課だった。
 どんな誘惑よりも、まずは笑顔で相手を引き込む。
 けだもの族、数万年の経験が導き出した奥義が、笑顔だった。
――それなのに。
 恵美は、自分の人格が二つに分かれてしまったことに気付いていない。
 いつもの屈託のない笑顔で、自分を奮い立たせ、自室を勢いよく飛び出した。
 その背後に、にやけた顔を浮かべる「けだもの族の恵美」がいることなど、知る由もない。
 やがて、恵美は葛西駅に到着し、ホームに立った。
 四方八方、ぐるりと360度、周囲を見渡す。
「見つけ……」
 背後から、聞き覚えのある自分の声が聞こえた。
「えっ? なに? 誰?」
 思わず振り返る。
 そこには、サラリーマン風の男が立っているだけだった。
 声の主は見当たらない。
 だが確かに聞こえた――自分自身の声。
 電車の中で、恵美と「もうひとりの恵美」は出会った。
 それぞれが、自分こそが本来の人格であると主張するかのように、日常を取り戻そうとする。
 正義感に満ちた恵美は、電車内の痴漢を捕まえようと行動し、一方、歓喜に震えた「けだもの族の恵美」は、気持ちよさに浮かされ、逃げた男への報復に燃え始める――。
 ここから、ふたりの人格が主導権を奪い合う攻防が始まった。
 表に出たり、裏に回ったり。
 恵美の中で、二つの声がぶつかり合い、おぞましくも醜い、精神の綱引きが始まる。

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