テキストサイズ

幸せな報復

第23章 田所恵美と後ろのエルザの出現

 義美は、普通の人間社会を知らずに育った。
 養父・宗男は、義美の出生届を提出していなかった。住民票もなく、学校へ通ったこともない。
 沢子に抱かれて小椋邸を逃げ出したあと、義美は宗男の暮らす離れで育てられた。海星の目を避けるように生きていたため、外の人間と接する機会はほとんどなかった。
 義美にとって、“男”とは宗男だけだった。 宗男は、赤子のころから義美に言葉や知識を教え込んだ。箸の持ち方から文字の読み方まで、何もかもを手取り足取り教えた。
 その様子を見つめながら、沢子は穏やかに微笑んでいた。

「人間の男というのは……頼もしいのね」

 沢子は、宗男を深く信頼していた。
 沢子が人生で知った男は、海星と宗男、この二人だけだった。
 海星のもとにいたころ、沢子の毎日は恐怖しかなかった。だが宗男は違った。
 宗男は優しく、穏やかだった。義美の世話を終えると、沢子を抱き寄せ、何度も「大丈夫ですよ」と囁いた。
 沢子は、そのぬくもりに救われていた。
 宗男もまた、沢子に強く惹かれていった。沢子が持つ、けだもの族特有の妖しい魅力は、宗男の心を深く絡め取っていた。
 もっとも、宗男も沢子を外へ出したがらなかった。
 だが海星のように閉じ込めるわけではない。鍵を掛けることも、怒鳴ることもない。
 だから沢子自身も、それを束縛だとは思っていなかった。
 外へ出る自由はあった。
 けれど、海星への恐怖が沢子の足を止めていた。
 そんな沢子に、宗男は静かな声で語りかけた。
「沢子さん、あなたは綺麗な人です。外へ出れば、必ず男たちが放っておきません」

 宗男は、沢子の肩を優しく撫でた。

「きっと声を掛けられます。“あんな美人は見たことがない”って。中には、あなたを自分のものにしたいと思う男もいるでしょう」
 沢子は不安そうに目を伏せた。

「噂は、思ったより早く広がります。もし海星の耳に入ったら……」

 その名を聞いた瞬間、沢子の身体が小さく震えた。
 まぶたを閉じる。
 暗闇の奥に浮かぶのは、あのおぞましい記憶だった。
 海星に暴かれ、蹂躙され、逃げ場もなく泣き続けた夜――。
 沢子は、息を詰まらせるように肩を抱いた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ