
月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】
第13章 十六夜の悲劇
月もない闇夜の底に、ひそやかな脚音が響く。いや、常人では到底聞き取れないほど、その男は物音を立ててはいない。
闇色の頭巾にすっぽりと頭を包み、脚の爪先まで全身黒ずくめの衣裳を着た男は、あたかも闇が凝って人の形を取ったように見える。わずかに頭巾からかいま見える眼許から、男がかなりの美男であることは判るが、冷え冷えとした光を放つ双眸は、まるで自ら感情を放棄したかのような冷徹さを漂わせる。
男は今、町の一角にある両班宋与徹の屋敷にいた。もっと詳しくいえば、与徹の寝所である。
真夜中過ぎとて、屋敷は静まり返り、皆誰もが深い眠りの底にたゆたっている。
贅沢な絹の夜具で肥え太った与徹が眠っている。だらしなく緩んだ口許からは唾液が滴り、到底、見られたものではない。のっぺりとした白すぎる膚はいかにも不健康そうで、口許だけ濃すぎる髭がどこか滑稽だ。
男が熟睡している与徹のたるんだ頬を長剣の切っ先でつつく。涎を垂らして眠りこけている与徹はなかなか気付かないが、漸く何度目かに眼を覚ました。
闇色の頭巾にすっぽりと頭を包み、脚の爪先まで全身黒ずくめの衣裳を着た男は、あたかも闇が凝って人の形を取ったように見える。わずかに頭巾からかいま見える眼許から、男がかなりの美男であることは判るが、冷え冷えとした光を放つ双眸は、まるで自ら感情を放棄したかのような冷徹さを漂わせる。
男は今、町の一角にある両班宋与徹の屋敷にいた。もっと詳しくいえば、与徹の寝所である。
真夜中過ぎとて、屋敷は静まり返り、皆誰もが深い眠りの底にたゆたっている。
贅沢な絹の夜具で肥え太った与徹が眠っている。だらしなく緩んだ口許からは唾液が滴り、到底、見られたものではない。のっぺりとした白すぎる膚はいかにも不健康そうで、口許だけ濃すぎる髭がどこか滑稽だ。
男が熟睡している与徹のたるんだ頬を長剣の切っ先でつつく。涎を垂らして眠りこけている与徹はなかなか気付かないが、漸く何度目かに眼を覚ました。
