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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第9章 燕の歌

 たとえ自分の父親でも―。
 その瞬間、知勇は聞き取れない咆哮を上げながら、眼前の父親に飛びかかっていった。
「許さない、香花を傷つけるものは、たとえ父上、あなたでもこの私が許さない!」
「止せ、知勇。止めるんだ」
 正史と知勇は夢中で揉み合った。組んずほぐれつ、二人は上になり下になりと掴み合いを続ける。
 と、知勇が正史にのしかかった体勢になった時、知勇の背中が部屋の片隅の箪笥に当たった。
 何かが割れる音、ゴトリと骨が軋むような何とも嫌な音があいついだ。
 知勇が我に返った時、彼の眼に映ったのは、頭を血まみれにして大の字に仰のいた父親と、その傍らに砕け散った青磁の壺であった―。
「ち、父上ッ」
 知勇は慌てて正史に駆け寄った。だが、既に正史の鼓動は止まり、呼吸も感じられなかった。恐らく、即死だったのだろう。
「わ、私は何ということを―」
 けして心から殺そうと思っていたわけではない。父が香花にまで魔手をのばそうとしたのに激昂して、父に向かっていった。そこまでは憶えているのだが、その先の記憶が曖昧でぼやけている。
 父と揉み合っているという実感はあったが、まさか、このようなことに―父を殺してしまうようなことになるとまでは考えてもみなかった。
 二人が取っ組み合いをしている時、知勇の背中が箪笥の角にぶつかり、その衝撃で上に置いている壺が落下した。不運にも、その真下に父正史の顔があったのだ。落下した壺はまともに正史の頭を直撃したに違いない。
 故意ではないとはいえ、息子である自分が父を殺したのだ、この手で。
 知勇は震える両手を眼の前にひろげた。
 この、手で、父を、殺した。
 この、自分、が。

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