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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第9章 生まれ変わる瞬間

 だから、今も希望がある限り、逃げ続ける。
 凛花は走ってきたその勢いで塀に取りついた。火事場の馬鹿力とでもいうのか、最後の踏ん張りだったのか。もしかしたら、亡き文龍が見えない手で凛花を引き上げてくれたのかもしれない。
 自分でも愕くほど身軽に凛花は塀の上に登ることができた。ここまで来れば、後はもうひたすら逃げるだけだ。
 凛花は転げるように地面に飛び降りた。着地した瞬間、右脚に鋭い痛みが走ったが、構わず走り出す。
 その時、凛花は我が眼を疑った。
 向こうから白馬が駆けてくる。あの見事な毛並みの馬は間違いなくインスの愛馬長生だ。
 凛花の心に明るい希望の火が点った。
 白馬はどんどん近づいてくる。
 馬上の人が手を差しのべた。凛花の手がその差しのべられた手を掴み、彼女の身体は無事、引き上げられた。
「凛花、良かった」
 懐かしい声に涙が堰を切ったように溢れ出す。凛花はその人の腕の中にすっぽりと包み込まれ、安堵のあまり大粒の涙を流した。
 県監が漸く表の道まで出てきた時、既にその場所はおろか、道の彼方にも人影はなかった。
 二人を乗せて白馬は走り去り、後には喚き散らす県監だけが残された。 

 県監邸から凛花を無事救出したインスは、凛花を自分の家に連れ帰った。インスの家は地方役所のすぐ近くにあった。
 両班といっても名ばかりで、住まいも屋敷などとは言えず、山茶花村の民家を多少見映え良くした程度のものである。
 インスの養父はとうに亡くなっていたが、養母はまだ健在であった。インスとは血の繋がりはないのは判っていても、何となく雰囲気が似ている。
 養母はインスが突如として凛花を連れ帰っても、深い事情は聞かず温かく迎え入れてくれた。嫌な顔一つしなかった。  
 インスの部屋に敷いた夜具に横たわり、凛花はまだ夢見心地であった。県監に手籠めにされかけた時、凛花は夢を見た。
 夢―非現実の世界をさ迷い、インスの面影を見たのだ。あの夢の中で、凛花は自分の気持ちに正直になろうと決意したのである。
 そうはいっても、意識を取り戻した直後は到底、助からない、自分はこのまま県監の餌食になるだろうとも思ったのも事実だ。

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