テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

「俺は! 泉水、お前を好きなんだ、五年前、初めて逢った日から、お前のことを忘れた日はねえ。だが、ひとめ惚れした女は、その時、既に他の男の女房だった。幾ら俺でも他人さまの女房にまで手を出すような畜生じゃねえ。だから、我慢してきたんだ。お前が亭主と別れた今、もう誰にはばかることもない。泉水、俺とこのままずっと、一緒に暮らそう」
「兵庫之助さま」
 泉水は、蒼褪めた。一体、何ということを兵庫之助に言わせてしまったのだろう。後悔しても、遅かった。
「な、俺の女房になってくれよ、頼むから」
 兵庫之助がじりじりと詰め寄ってくる。泉水は知らず後ずさっていた。
―怖い。
 泉水の身体中の膚が粟立った。
 兵庫之助の眼が欲望に薄く翳っている。
 このまなざしには憶えがあった。泰雅もまた、泉水を求めてくるときには、いつもこんな眼をしていた。ねっとりとした視線がまるで蛇のように身体に絡みつくようで、泉水は泰雅がこんな眼をする度、恐怖に身がすくんだ。
「私、私―」
 泉水は首を振りながら、夢中で後ずさる。
「泉水!」
 兵庫之助がたまりかねたように、泉水に襲いかかった。ふいをつかれ、その場に押し倒され、泉水は烈しい恐慌状態に陥った。
「い、いやーっ。いや、止めて下さい。兵庫之助さま、お願いだから、こんなことは止めて!」
 しかし、激情に駆られた兵庫之助には何を言っても、伝わらない。
 泉水は渾身の力で抗い、兵庫之助から逃れようとする。必死で振り回した拳が兵庫之助の顎に当たった。兵庫之助が小さく呻き、一瞬、泉水から手を放す。
 泉水はその隙を逃さず、逞しい男の身体の下から這い出た。そのまま走って三和土に降りようとした泉水を、更に兵庫之助が血走った眼で追いかける。後ろから抱きすくめられ、泉水は悲鳴を上げた。
「あっ」
 涙が、零れそうになる。
 何故、このようなことになるのか判らなかった。自分のどこが悪いのだろう。どこに落ち度があって、いつもこんな風になってしまうのだろう。兵庫之助までもが泉水を欲望の対象としてしか見ていなかった―。その事実は、泉水を打ちのめした。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ