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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

「そいつは済まねえ。俺も大抵のことはできるんだが、縫い物だけは苦手だから、助かった」
 心底嬉しげに言う。
「どうぞ」
 泉水が差し出した袴を、兵庫之助が受け取ろうと手を伸ばした。その刹那のこと、兵庫之助の手と泉水の手がかすかに触れ合った。それは、指先と指先がかすめ合っただけにすぎなかったのだが―、互いにあたかも雷に打たれたかのような衝撃が走った。
 兵庫之助の指先が触れた部分が熱い。
 泉水は弾かれたように兵庫之助から離れた。指先がまるで火傷したかのように熱を帯びている。
 それは、ひと月前、兵庫之助が泉水の指を咄嗟に舐めたときに憶えた感覚にも似ていた。
「泉水―」
 最近、兵庫之助は〝お前さん〟ではなく、〝泉水〟と呼ぶことが多くなった。兵庫之助に名前で呼ばれると、何か落ち着かない気分になる。そのくせ、くすぐったいような、嬉しいようにも思えるのだ。
 名を呼ばれ、泉水はハッと我に返った。
「俺と一緒になっちゃくれねえか」
 兵庫之助の声が掠れている。泉水は、ふと違和感を感じた。何とはなしに、いつもの彼と違う。
「でも、私は」
 泉水が言いかけると、兵庫之助は首を振った。
「判ってる。お前がまだ榊原泰雅の妻だってことは、俺だって百も承知だ。だが、お前はもう、あの男とは別れるつもりなんだろう? お前がその気なら、俺はそれで良いんだ。たとえ世間さまには認めて貰えなくても、俺はお前を女房にしてえ」
「兵庫之助さまは、もう秋月さまのお家に戻るおつもりはないのですか? ご実家にお帰りになれば、どこか、あなたさまに相応しい婿入り先があるかもしれません」
 泉水はうつむき、消え入るような声で言った。
「お前は、そんなに俺を婿に行かせてえのか? 俺が実家に戻って、どこかの女と所帯を持つ方が良いのか?」
 兵庫之助が振り絞るように言った。

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