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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第32章 変化(へんげ)

 それだけが、救いといえば救いといえた。
 そんなある日、黎次郎の守役脇坂倉之助が泉水の許を訪れた。
 暦が水無月に変わろうという頃のことである。まだ梅雨入りも前とて、庭の紫陽花は控えめな白い花をつけている。障子戸は開け放しており、時折、爽やかな風が部屋の中まで吹き込んでくる。
 泉水は脇坂と自室で対面した。
 脇坂はいかにも律儀な彼らしく、まずは突然の来訪の非礼を述べ、手をついた。
「相変わらず四角四面よの」
 泉水は下座で畏まる脇坂を見て、笑った。
「そなたとは、もう知り合うて長い。しかも、脇坂どのは我が子黎次郎の育ての親でもある。そのように堅苦しうなられぬように」
 泉水が穏やかな声音で言うのに、脇坂は依然として平伏したままである。
「さあ、面を上げられよ」
 更に促したところで、漸く面をわずかに上げた。
「それよりも、今日はいかがしたのじゃ?」
 泉水は脇坂に話しやすいようにと糸口を示してみせたのだが、脇坂は全く思いもかけぬことを言った。
「奥方さまは、それがしをさぞお恨みでございましょうな。五年前、いとけなき若君と奥方さまを無惨にも引き離し申したこと、私はけして忘れてはおりませぬ」
「何を言い出すと思えば、何を今更申すのやら」
 泉水は微笑む。
「あのときは致し方なかったのではないか。殿のご命には何人たりとも逆らえぬ。いまだからこそ言うが、あの折、そなたは私も黎次郎と共に江戸へ来るようにと申した。あれが、そなたの心遣いであったと、私はとうに知っていた。私と黎次郎を引き離すことなく、江戸へと思う、そなたなりの優しさだと知っておった。そんな脇坂どのをどうして、私が恨んだり致そうか」
 その言葉は、心からの言葉であった。五年前、脇坂は泰雅の命を受け、月照庵に黎次郎を迎えにきた。黎次郎はわずか生後八ヶ月で母から引き離され、江戸へと連れ去られたのである。それは、泰雅の泉水に対する復讐であった。自分を裏切り失踪した妻から、泰雅は最も大切な我が子を取り上げたのだ。

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