
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第30章 花惑い
「奥方さま、いかがなされましたか」
奥向きを取り仕切る女中頭の河嶋がひっそりと立っていた。河嶋が気遣わしげな視線を向けているのも道理であった。改めて我に返れば、泉水は草履も突っかけず、裸足で庭に降り立っているのだった。鶯を追いかけようとして、夢中だったため、気付かなかったのだ。
「奥方さま?」
再度呼びかけられ、泉水は淡く微笑んだ。
「大事ない」
「さりながら―」
河嶋がなおも何か言いたげに口をうごめかす。その視線が足許に注がれているのに気付き、泉水は微苦笑を刻んだ。
「鳥を見ておった」
「鳥、にございますか?」
不審げな面持ちで問い返し、河嶋が視線を庭に彷徨わせる。
泉水はポツリと呟いた。
「鳥は良いのう、私にも翼があれば、あのように遠くまで飛んでゆける」
「奥方さま」
河嶋の声に不安が滲んでいる。窺うように見つめてくる河嶋に、泉水はゆるりと首を振った。
「案ずるな、そなたに迷惑がかかるようなことはせぬゆえ」
河嶋の不安は何となく察せられた。河嶋は泰雅を育てた乳母である。誕生の砌から泰雅を育て上げ、主の成人後は奥向きを取り仕切る老女の役職に就いた。それゆえ、榊原家においても〝表は脇坂さま〟、〝奥は河嶋さま〟と囁かれるほど隠然とした発言力を有している女性であった。泰雅の信頼も厚く、この河嶋の意見であれば、泰雅も耳を傾けるとまでいわれている。
泰雅もまた泉水と同様、肉親との縁(えにし)は薄く育った。生母景容院は不義の子である泰雅を疎んじ、幼時から母らしい愛情を与えてはくれず、慈愛を注いでくれた父泰久は泰雅が十二歳のときに亡くなった。泉水にとって時橋が母同然の存在であったように、泰雅にとっては河嶋が母と呼べる大切なひとであった。
見かけは厳しく気難しげな河嶋ではあったが、内実は話の判る、さばさばとした人柄である。若い腰元たちからは畏怖されていたけれど、泉水は河嶋が外見どおりの人物ではないと端から見抜いていたゆえ、さほどに煙たいとは思わなかった。むしろ、良人を育てた乳母として一目置いていたほどだ。
奥向きを取り仕切る女中頭の河嶋がひっそりと立っていた。河嶋が気遣わしげな視線を向けているのも道理であった。改めて我に返れば、泉水は草履も突っかけず、裸足で庭に降り立っているのだった。鶯を追いかけようとして、夢中だったため、気付かなかったのだ。
「奥方さま?」
再度呼びかけられ、泉水は淡く微笑んだ。
「大事ない」
「さりながら―」
河嶋がなおも何か言いたげに口をうごめかす。その視線が足許に注がれているのに気付き、泉水は微苦笑を刻んだ。
「鳥を見ておった」
「鳥、にございますか?」
不審げな面持ちで問い返し、河嶋が視線を庭に彷徨わせる。
泉水はポツリと呟いた。
「鳥は良いのう、私にも翼があれば、あのように遠くまで飛んでゆける」
「奥方さま」
河嶋の声に不安が滲んでいる。窺うように見つめてくる河嶋に、泉水はゆるりと首を振った。
「案ずるな、そなたに迷惑がかかるようなことはせぬゆえ」
河嶋の不安は何となく察せられた。河嶋は泰雅を育てた乳母である。誕生の砌から泰雅を育て上げ、主の成人後は奥向きを取り仕切る老女の役職に就いた。それゆえ、榊原家においても〝表は脇坂さま〟、〝奥は河嶋さま〟と囁かれるほど隠然とした発言力を有している女性であった。泰雅の信頼も厚く、この河嶋の意見であれば、泰雅も耳を傾けるとまでいわれている。
泰雅もまた泉水と同様、肉親との縁(えにし)は薄く育った。生母景容院は不義の子である泰雅を疎んじ、幼時から母らしい愛情を与えてはくれず、慈愛を注いでくれた父泰久は泰雅が十二歳のときに亡くなった。泉水にとって時橋が母同然の存在であったように、泰雅にとっては河嶋が母と呼べる大切なひとであった。
見かけは厳しく気難しげな河嶋ではあったが、内実は話の判る、さばさばとした人柄である。若い腰元たちからは畏怖されていたけれど、泉水は河嶋が外見どおりの人物ではないと端から見抜いていたゆえ、さほどに煙たいとは思わなかった。むしろ、良人を育てた乳母として一目置いていたほどだ。
