
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第30章 花惑い
―けして自害をしてはならぬ。
月照庵から遠く離れたこの江戸の榊原屋敷に連れてこられた早々、元家老の脇坂倉之助を通して、泰雅よりの命令として言い渡されたのである。かつては榊原家にこの人ありと謳われた名家老も現在は家老職を退き、榊原家の世嗣黎次郎の傅育係としてその養育に専念していた。
この黎次郎こそ、泉水が生んだ子である。四年前、当時、家老であった脇坂は、はるか江戸から月照庵まで黎次郎を迎えにきた。すべては泰雅の命であった。泰雅の命を受けた脇坂は、黎次郎を我が身に託してくれたからには、身を挺してその養育に専心すると泉水の前で誓った。脇坂はその約束を律儀に守り抜き、家老職を退いて黎次郎を一人前の武士として育て上げるべく心を砕いてきた。
泰雅は最も残酷な方法で、泉水に復讐を遂げたのである。当時、黎次郎はまだ生後一年にも満たない乳飲み子であった。その子を、母から引き離したのは何も榊原家の世継を欲するからではなく、単に泉水からたった一人の我が子を引き離さんがためであった。
四年前、こうして黎次郎を奪っておきながら、泰雅は今また泉水を卑劣なやり方で取り戻した。
その脇坂が泉水に対面を申し出てきたのは、江戸に戻った翌日のことであった。
―けして、ご自害なされようなぞとは思し召されませぬように。これは、殿よりの厳命にござりまする。
脇坂は四年ぶりに対面する泉水に深々と辞儀をすると、まず
―奥方さま、お久しうござります。
と述べた。その後で、けして早まった真似はせぬようにと、くどいほど念を押したのである。泰雅の命令であることに相違はなかろうが、脇坂が泉水の身を案じての言葉でもあることは察せられた。泉水が押し黙ったままでいると、脇坂は穏やかな声音で続けた。
―黎次郎君もお身大きくおなりにございます。まだおん歳四歳であらせられながら、ご利発、早くも英明の聞こえ高く、難しい漢籍などもすらすらと諳んじなさいます。お方さまがご当家にお戻りあそばされましたからには、おいおいご対面の機会もござりましょう。お方さまは、この榊原家のお世継さまのご生母さまなれば、どうか、その黎次郎君のご成長をお愉しみになさり、ここは堪え忍んで下さりませ。
月照庵から遠く離れたこの江戸の榊原屋敷に連れてこられた早々、元家老の脇坂倉之助を通して、泰雅よりの命令として言い渡されたのである。かつては榊原家にこの人ありと謳われた名家老も現在は家老職を退き、榊原家の世嗣黎次郎の傅育係としてその養育に専念していた。
この黎次郎こそ、泉水が生んだ子である。四年前、当時、家老であった脇坂は、はるか江戸から月照庵まで黎次郎を迎えにきた。すべては泰雅の命であった。泰雅の命を受けた脇坂は、黎次郎を我が身に託してくれたからには、身を挺してその養育に専心すると泉水の前で誓った。脇坂はその約束を律儀に守り抜き、家老職を退いて黎次郎を一人前の武士として育て上げるべく心を砕いてきた。
泰雅は最も残酷な方法で、泉水に復讐を遂げたのである。当時、黎次郎はまだ生後一年にも満たない乳飲み子であった。その子を、母から引き離したのは何も榊原家の世継を欲するからではなく、単に泉水からたった一人の我が子を引き離さんがためであった。
四年前、こうして黎次郎を奪っておきながら、泰雅は今また泉水を卑劣なやり方で取り戻した。
その脇坂が泉水に対面を申し出てきたのは、江戸に戻った翌日のことであった。
―けして、ご自害なされようなぞとは思し召されませぬように。これは、殿よりの厳命にござりまする。
脇坂は四年ぶりに対面する泉水に深々と辞儀をすると、まず
―奥方さま、お久しうござります。
と述べた。その後で、けして早まった真似はせぬようにと、くどいほど念を押したのである。泰雅の命令であることに相違はなかろうが、脇坂が泉水の身を案じての言葉でもあることは察せられた。泉水が押し黙ったままでいると、脇坂は穏やかな声音で続けた。
―黎次郎君もお身大きくおなりにございます。まだおん歳四歳であらせられながら、ご利発、早くも英明の聞こえ高く、難しい漢籍などもすらすらと諳んじなさいます。お方さまがご当家にお戻りあそばされましたからには、おいおいご対面の機会もござりましょう。お方さまは、この榊原家のお世継さまのご生母さまなれば、どうか、その黎次郎君のご成長をお愉しみになさり、ここは堪え忍んで下さりませ。
