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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第26章 別離

「最後は最後らしくなく?」
 泉水が小首を傾げると、夢五郎は笑った。
「そう、いつもどおり、また、すぐ次の機会に逢えるかのように手を振って。これまでのように笑顔で別れよう」
 その次の機会が永遠に来ないだなんて、想像もできないほど、これまでどおりの普段のやり方で、笑顔で手を振って別れよう。
 夢五郎の言葉が改めて心に滲みた。
「おい、黎次郎、元気で大きくなるんだぞ?」
 無心に眠っている赤子に声をかけ、夢五郎が立ち上がる。
「じゃあ、またな」
 夢五郎は泉水にも笑顔で片手を上げた。
 本当に、いつものとおりで、たった今、この男と交わしたばかりの会話がまるで嘘のようにさえ思える。
「また―」
 万感の想いを込めて見上げる。夢五郎のまなざしは、泉水を慈しむかのように優しかった。その優しさが、今は余計に哀しい。泰雅のように嫌いになれれば、気は楽だった。夢五郎を好きだから、優しい男だから、別れの哀しさと淋しさが身に滲みた。
 視線と視線が束の間絡み合い、離れてゆく。
 思えば、この男もまた泉水とは不思議な縁(えにし)で結ばれた男だった。
 泉水が深々と頭を下げると、夢五郎が背を向けた。遠ざかる背中に、涙が込み上げてくる。夢五郎の姿が角を曲がって見えなくなると、泉水はたまらず涙を流した。黎次郎の小さな身体を抱きしめ、低い嗚咽を洩らした。
 穏やかな早春の陽差しが母子をやわらかく包み込んでいる。
 山の上の寺に春が訪れるのは遅い。
 ふいに陽が翳り、空気が冷たさを増す。
 泉水が黎次郎に風邪を引かせてはならないと涙を拭いて立ち上がったのは、それからほどなくであった。
 
 月照庵からの帰路、夢五郎は馬から周囲の景色を眺めていた。普段は徒歩(かち)で来ることが多いのだけれど、今日は馬を脚に使っている。この山道をあと少し降りきれば、小さな村に着く。月照庵に身を落ち着けるまで、ふもとのその小さな村で泉水はひと月ほど暮らしていたのだ。

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