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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第26章 別離


 数日後、暦は如月に変わった。
 その日、待ち人が久方ぶりに月照庵を訪れた。夢五郎が訪れた時、泉水は黎次郎を腕に抱いて廊下に座っていた。まだ如月に入ったばかりというのが嘘のように温かな昼下がりであった。日毎に春めいてくる陽差しが廊下に溢れている。光の輪の中に座り、黎次郎を膝に乗せてあやす泉水は淡く微笑を湛えていた。
 夢五郎は少し離れた場所に佇み、しばらく母子の微笑ましい姿を眺めていた。恐らく泉水と逢うのもこれが最後になるであろうと思うと、夢五郎の胸に改めて言い知れぬ淋しさが押し寄せる。初めて泉水と出逢ったのは二年前のことになる。江戸の町中で夢札を降り歩いていた最中、泉水に商売物の夢札を一枚分け与えたのが始まりであった。
 あの時、泉水は榊原泰雅の妻であった。むろん、夢五郎はまだその時、泉水の素性は知らない。だが、後から思い返してみても、人妻と呼ぶには少々痛々しいほど、まだ娘らしさを十分に残していた。あれから二年経ち、泉水は母となり、変わった。さながら蝶が蛹から美しい脱皮して成虫になるように、少女から大人の女性へと艶やかに花開いた。だが、その花を開かせたのは他ならぬ良人榊原泰雅だ。その泰雅から泉水は逃れ、この江戸から遠く離れた尼寺に辿り着いた。その庵の住持が我が母であったとは単なる偶然か、仏の配慮かは判らない。
 夢五郎は泉水に惚れている。いや、出逢ったその瞬間から、男装の袴姿も凛々しく勇ましい少女に惹かれた。あまり大っぴらに言える話ではないが、それまでの夢五郎は女を抱く代わりに、陰間茶屋―つまり美少年が男娼として色を売る淫売宿に出入りしていた。実の母に物心つく前に捨てられたも同然の夢五郎にとって、女は実に奇々怪々であり信用できぬ魔物であった。女は怖ろしい、まともに相手をするのもいやだと思い込んでいたのである。
 それが、泉水を知って、夢五郎は考え方が変わった。泉水のような一風変わった、ぴしりと筋の通った女人もいるのだと眼から鱗が落ちた想いであった。あの時、泉水は、母親を探しているという幼い少女と共に失踪した母親を捜し回っていた。無類のお人好しで正義感の強い癖に、涙もろくて可愛らしい。何にでも真剣に向かってゆく姿は勇ましいけれど、どこか頼りなくて放っておけない。そんな泉水に強く惹かれた。

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