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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第26章 別離

「のう、時橋。今、私は幸せじゃ。そなたが傍にいてくれるし、こうして黎次郎の健やかな成長を愉しみに日々心穏やかに過ごしてゆける。それだけでも、御仏のご加護とお導きがあったればこそ、この御寺に来ることができたからだと思うて感謝しておる。これ以上の幸せを望めば、仏罰が当たろうというものよ」
 それは、泉水の心からの言葉であった。女としての幸せを得ることは叶わなかったけれど、それでも、母となり我が子をこの腕に抱ける歓びを持てた。今は母とも信頼できる時橋と一緒にいられる。尊敬する師匠の指導を受け、師匠のような尼君になりたいという夢と理想に燃え一心に修行に打ち込める。
 この寺に来てから、初めて心の平安とも呼べるものを得たような気がする。もう、泰雅の影に怯えることもない。夢五郎に寄せる想いが異性へのものなのか、それとも頼りがいのある兄のようなひとへの慕わしさなのか、今の泉水には正直、よく判らなかった。ただ、いつもはよく見るあの優しい笑顔を見ないと、心のどこかにぽっかりと穴が空いたような、針で刺したほどの小さな穴に隙間風が吹き抜けてよくような、そんな頼りなげな心持ちになる。
 しかし、泉水は我が身の気持ちを突きつめてみようとはしなかった。もし、夢五郎への気持ちが兄に対するようなものではないと判った時、自分がどうなってしまうか―、自分がどのような行動に出るか判らなかったからだ。
 男に惚れれば、自分はまた、相手の男を不幸に陥れる。結果、自分自身を含めて回りの人々をも巻き込んで不幸にしてしまうだろう。あんな辛い想いをするのは二度とご免だった。
 多くを望まず、今の平穏な幸せにだけ眼を向け、感謝していれば良いと考えている。
 と、突然、クシュンと小さなくしゃみの音が部屋に響き渡り、泉水は時橋と顔を見合わせた。
「まあ、この子は器用なこと。寝ながら、くしゃみをするとは」
 思わず笑った泉水に、時橋が眉をひそめた。
「姫さま、何を呑気なことを仰せでございますか。若君さまがお風邪でも召されましたら、大変にございますよ。ああ、お部屋が寒いのでしょうか」
 時橋が途端に慌てふためく。泉水は破顔した。

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