
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第26章 別離
訝しげな顔の泉水に、時橋はつと視線を動かした。腕に抱いた黎次郎の寝顔を眺めながら、低い声で続ける。
「姫さまの御仏にお仕えになりたいと思し召されるお心はご立派なものと存じ上げます。されど、そのご決意がもしや、榊原の殿からお逃れるになるためのものであるとしたら―、私はいかがなものかと思いまする」
泉水を育てた乳母だけに、時としては言いにくいことまでをも言う。が、その心の底には常に泉水を案ずる想いがあることを泉水は知っている。
「ご無礼の段は重々承知しておりますが、それでも敢えて申し上げております。畏れながら、私は姫さまご生誕の砌よりご養育を仰せつかり、姫さまを我が娘ともお思い申し上げて今日までお仕え参らせてきました。それだけに、姫さまにはお幸せになって頂きたいのでございます。我が娘がまだ二十歳のうら若き身でむざと黒髪を降ろし、尼となるのを歓ぶ母親がどこにおりましょうか。姫さま、姫さまがもし夢五郎さまをお慕いなっておられるのであれば、どうか、そのお心に正直におなりになって頂きたいと存じます。今一度、女人としてお幸せにならるる道があるのであれば、私は姫さまにその道を歩んで頂きたいと存じます」
真摯な視線であった。
時橋は夢五郎の素性を知らない。だが、時橋は夢五郎のひそかな手引きで榊原の屋敷を脱出して、この寺に来たのだ。あれから、そろそろ一年近くになる。この寺で暮らす中に、しばしば訪れる夢五郎と光照の間に何かしらかの拘わりがあることに気付かぬはずはなかった。元々、勘の鋭い利発な時橋なのだ。
が、自分が口を挟む筋のことではないと判断し、泉水に二人の関係について訊ねることもなく、知らぬふりを通しているのだろうと思われた。真っすぐに見つめてくる時橋の視線を受け止めかね、泉水はうつむく。
「それ以上は言うてはならぬ」
「さりながら―」
言いかけようとする時橋の言葉を、泉水は鋭い声で遮った。
「言うてはならぬ!」
沈黙が落ちた。泉水は、あらぬ方を見つめたまま呟くように言った。
「時橋、私は殿方を不幸に陥れる女じゃ。泰雅さまとのことも元を正せば、泰雅さまだけに責めがあるわけでもない。むしろ、夫婦でありながら殿を拒み続けた私のせい。であれば、今また一時の感情だけで動くわけらは参らぬ」
「姫さまの御仏にお仕えになりたいと思し召されるお心はご立派なものと存じ上げます。されど、そのご決意がもしや、榊原の殿からお逃れるになるためのものであるとしたら―、私はいかがなものかと思いまする」
泉水を育てた乳母だけに、時としては言いにくいことまでをも言う。が、その心の底には常に泉水を案ずる想いがあることを泉水は知っている。
「ご無礼の段は重々承知しておりますが、それでも敢えて申し上げております。畏れながら、私は姫さまご生誕の砌よりご養育を仰せつかり、姫さまを我が娘ともお思い申し上げて今日までお仕え参らせてきました。それだけに、姫さまにはお幸せになって頂きたいのでございます。我が娘がまだ二十歳のうら若き身でむざと黒髪を降ろし、尼となるのを歓ぶ母親がどこにおりましょうか。姫さま、姫さまがもし夢五郎さまをお慕いなっておられるのであれば、どうか、そのお心に正直におなりになって頂きたいと存じます。今一度、女人としてお幸せにならるる道があるのであれば、私は姫さまにその道を歩んで頂きたいと存じます」
真摯な視線であった。
時橋は夢五郎の素性を知らない。だが、時橋は夢五郎のひそかな手引きで榊原の屋敷を脱出して、この寺に来たのだ。あれから、そろそろ一年近くになる。この寺で暮らす中に、しばしば訪れる夢五郎と光照の間に何かしらかの拘わりがあることに気付かぬはずはなかった。元々、勘の鋭い利発な時橋なのだ。
が、自分が口を挟む筋のことではないと判断し、泉水に二人の関係について訊ねることもなく、知らぬふりを通しているのだろうと思われた。真っすぐに見つめてくる時橋の視線を受け止めかね、泉水はうつむく。
「それ以上は言うてはならぬ」
「さりながら―」
言いかけようとする時橋の言葉を、泉水は鋭い声で遮った。
「言うてはならぬ!」
沈黙が落ちた。泉水は、あらぬ方を見つめたまま呟くように言った。
「時橋、私は殿方を不幸に陥れる女じゃ。泰雅さまとのことも元を正せば、泰雅さまだけに責めがあるわけでもない。むしろ、夫婦でありながら殿を拒み続けた私のせい。であれば、今また一時の感情だけで動くわけらは参らぬ」
