
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第8章 予期せぬ災難
泉水は何も言えなかった。そう言ったときの誠吉の顔はひどく淋しげだったからだ。
「それとも、もう死んじまった人間の名前なんて、嫌か?」
その問いに、泉水は首を振った。
「いいえ、そんなことはありません」
「そっか。なら、それで決まりな」
誠吉は嬉しげに言った。
黄昏刻なのか、長屋の腰高障子が蜜色に染まっていた。遠くで、蝉の声が聞こえている。
蜩だった。
何故か、その鳴き声が物哀しげに聞こえる。折角親切にしてくれる誠吉に申し訳なくて、泣くまいとすればするほど、涙は次々に溢れてくる。
「大丈夫だ、その中に思い出すから、泣くなよ」
誠吉が労るように言う。泉水はコクコクと頷きながら、大粒の涙を流し続けた。
《巻の弐―待ち人―》
どこかで誰かが呼んでいた。
そう、いつもの、あの哀しい夢だ。
遠くであの人が呼んでいる。私の名前を呼んでいるのに、私にはそれが判らない。どうしても思い出せない。
お願い、誰か、私をこの暗闇から連れ出して。私を待つあの人の許へ連れていって。
私はここにいるから、私はここでずっとあなたを待っているからと、あの人に伝えて欲しいの。
「―おさよ、おさよ」
泉水は身体を揺さぶられて、我に返った。
どうやら、うたた寝をしていたらしい。
誠吉と共に暮らし始めて、既に半月が経っていた。泉水の怪我もほぼ癒え、日常生活には支障がないほどまでに回復した。右手の骨には異常はなかったようで、手脚に追った打ち身は、しばらくはかなり痛んだけれど、十日経つ中にはかなり薄らいで、今ではすっかり良くなった。
二、三日前から、泉水は不器用ながらも三度の飯の支度や洗濯を引き受けて、何とかこなしている。
お嬢さま育ちの泉水にとって、いわゆる家事というものは初めての体験であった。事故に遭った当時の身なりからも泉水が相当の
武家の家の娘であることは誠吉も察しているらしく、別段不思議がったり、迷惑そうな顔をすることもない。
「それとも、もう死んじまった人間の名前なんて、嫌か?」
その問いに、泉水は首を振った。
「いいえ、そんなことはありません」
「そっか。なら、それで決まりな」
誠吉は嬉しげに言った。
黄昏刻なのか、長屋の腰高障子が蜜色に染まっていた。遠くで、蝉の声が聞こえている。
蜩だった。
何故か、その鳴き声が物哀しげに聞こえる。折角親切にしてくれる誠吉に申し訳なくて、泣くまいとすればするほど、涙は次々に溢れてくる。
「大丈夫だ、その中に思い出すから、泣くなよ」
誠吉が労るように言う。泉水はコクコクと頷きながら、大粒の涙を流し続けた。
《巻の弐―待ち人―》
どこかで誰かが呼んでいた。
そう、いつもの、あの哀しい夢だ。
遠くであの人が呼んでいる。私の名前を呼んでいるのに、私にはそれが判らない。どうしても思い出せない。
お願い、誰か、私をこの暗闇から連れ出して。私を待つあの人の許へ連れていって。
私はここにいるから、私はここでずっとあなたを待っているからと、あの人に伝えて欲しいの。
「―おさよ、おさよ」
泉水は身体を揺さぶられて、我に返った。
どうやら、うたた寝をしていたらしい。
誠吉と共に暮らし始めて、既に半月が経っていた。泉水の怪我もほぼ癒え、日常生活には支障がないほどまでに回復した。右手の骨には異常はなかったようで、手脚に追った打ち身は、しばらくはかなり痛んだけれど、十日経つ中にはかなり薄らいで、今ではすっかり良くなった。
二、三日前から、泉水は不器用ながらも三度の飯の支度や洗濯を引き受けて、何とかこなしている。
お嬢さま育ちの泉水にとって、いわゆる家事というものは初めての体験であった。事故に遭った当時の身なりからも泉水が相当の
武家の家の娘であることは誠吉も察しているらしく、別段不思議がったり、迷惑そうな顔をすることもない。
