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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第3章 幻の村

 振り向いたトンジュの眼に映じたのは、一人の少女であった。若草色のチョゴリと眼にも鮮やかな牡丹色のチマを身につけた可憐な少女は、さながら庭に咲く牡丹の花の化身かと見紛うほどだ。
 トンジュが愕きのあまり声も出せないでいると、少女はふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
 後ろで一つに編んだ長い髪に手を伸ばし、髪に飾っていたリボンを取ったかと思うと、トンジュの手首に巻き付けた。
―これは涙の止まるおまじない。だから、もう泣かないで。生きていれば、愉しいこともあるし哀しいこともあるわ。今日、哀しいことがあったのだから、きっと明日は愉しい良いことがあってよ。禍福は糾える縄のごとし、昔の諺にちゃんと書いてあるの。あなたは本も読めるようだから、きっと意味を判ってくれるわよね?
 言うだけ言うと、少女はもう一度微笑み、弾むような足取りでお屋敷の方へと去っていった。まるで春風が一瞬、側を吹き抜けたかのような心持ちで、トンジュは泣くのも忘れ果て、茫然と少女の消えた方を見つめていた。
 トンジュの手には、鮮やかな牡丹色の髪飾りだけが残った―。
「それでは、あなたがあのときの子だったの?」
 サヨンは眼を輝かせた。あの日の出来事は、サヨンもよく憶えている。
 痩せっぽちで背が低くて、男の子のくせに泣きじゃくっていた少年の姿はいまだに脳裏に灼きついていた。
 それにしても、あの泣いていた男の子がまさかトンジュだったとは! 彼がこの屋敷に来たときから知っているといっても、トンジュを屋敷内でよく見かけるようになったのは、この出来事から少なくとも数年後のことだ。
 この時期になると、トンジュも新参者扱いされなくなり、機転も利く働き者として執事や女中頭に眼をかけられるようになっていた。そのため、年少の使用人たちの間での苛めもなくなり、むしろ陰湿な苛めや嫌がらせから年下の子どもを庇ってやる立場になっていた。
 その頃、トンジュは既に十歳になっており、屋敷に来たときに比べれば身の丈は幾分伸びていた。もう、三年前に泣いていた幼い男の子の面影はなくなっていた。とはいっても、まだ、その頃はサヨンよりもほんの少しは背が低かったのだ。

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