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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第3章 幻の村

 トンジュはその前日の夜、夜陰に紛れて村を逃れたものの、どうしても村のことが気がかりで山を下りられなかったのだと言った。
 幼いトンジュは樹々の茂みに潜み、自分の生まれ育った村が焔に飲み込まれてゆくのを涙ながらに見守った。
 或る女はまだ幼い上の子を右手に、生まれたばかりの乳飲み子を左手に抱きながら焔に焼かれた。或る老いた夫婦は互いに抱き合って、最期の瞬間を迎えたのだ。
 皆、その日が来ることを知っていた。村ごと焼き殺されるのを知りながらも、最後まで村に残り、村と共に運命を共にし従容として死に臨んでいった誇り高き人々であった。
 トンジュと村を裏切った者二人以外に、逃げた村人は一人としていなかった。
 一時は同胞とまで思った村人を裏切り、役人たちを手引きした男は、後に長官の命で首を切られた。
「その男はかつて長官の生命を救った、いわば生命の恩人だった。その男が町の医者も匙を投げた病にかかった長官を救ったんです。けれど、長官は何の躊躇いもなく、男を殺した。俺は、はっきり言って、裏切り者を憎いと思いますが、生命の恩人であり、事の協力者であったその男を殺した長官の方がもっと憎い」
「―」
 サヨンの瞳から透明な滴が流れ落ちた。
 あまりにも凄絶で哀しい話だ。
「ここに、あなたの生まれ故郷があったのね」
 サヨンの前方には、もう何も存在しない。ほんの十年余り前には、この地にはまだ村人が暮らし、ささやかで平和な日々を紡いでいたというのに、彼等が生きていた証も痕跡も何もない。
 かつてこの場所に高度な薬草知識を持った人々が暮らしていた―、そのこともやがては遠い歴史の底に沈み、闇から闇へと消えてゆくのだろう。
 人はあまりにも儚い。
 サヨンの眼からは、ひっきりなしに涙が溢れ、頬をつたい落ちた。
「村人のために泣いてくれるんですか」
 サヨンの涙にトンジュは胸を突かれたようだ。
 サヨンは涙をぬぐって言った。
「家を建てましょう。ここに家を建てて、また村を作るのよ。孫のあなたが帰ってきたんだもの、お祖母さまも他の村人たちもきっと今、歓んで迎えてくれているわ」

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