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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第3章 幻の村

 怯えた眼で見つめてくるサヨンから、トンジュが辛そうに眼を逸らした。
「済みません。余計なことを言って、また怖がらせてしまったようだ」
 トンジュは口早に言い、頭を軽く振った。
「昔、ここに俺の暮らした村がありました」
 突然、変わった話にサヨンは眼を丸くしたものの、黙って耳を傾けた。トンジュが話題を変えたがっていることが切実に伝ってきたからだ。
 サヨンは眼を閉じてみる。瞼には忽ちにして一つの村の風景が浮かび上がってきた。
 小さな小さな村は、全部合わせても十数世帯ほどしかなく、そこに暮らす村人たちは皆、肩を寄せ合うように暮らしている。
 そこでは、皆が家族であり、同胞(はらはら)であった。他人の痛みはけして他人事ではなく、我が事であり、他所の子も我が子も皆、自分の子同然だ。
 トンジュの話に聞き入りながら、サヨンの空想の中の村は、更に生き生きと再現されてゆく。
 村人はそれぞれ生業を持っているが、殆どが山に分け入って薬草を摘んで生計を立てていた。山から麓のいちばん近い町まで行き、薬草を薬屋に売ってくるのだ。
 村人たちの薬草における知識は貴重であり、豊富であった。町で名の知れた名医といわれるほどの医者ですら知らない薬草の名を諳んじていたのだ。
 この辺りを治める地方役所の長官が烈しい食あたりを患ったことがあった。医者でも手の施しようがなかったその病を見事に治したのは、この村人の一人だった。
「本当に素晴らしい村でした。ここからはるばる都に出て、大行首さまのお屋敷でもよくして頂きましたが、やはり、都の人には、この村の人たちの純朴さはなかった」
 トンジュの瞳は遠かった。今、彼の記憶ははるかな昔に還っているのに違いなかった。
 かつて、この場所に心優しき村人たちがひっそりと暮らしていたという昔、古き良き時代に。
 だが、と、サヨンは考えずにはいられない。
 それほどの高度な薬草に対する知識を持つ村がどうしてなくなってしまったのか。
 その理由を問うてみたい気がしたが、トンジュの様子から察するに、あまり触れられたくない話のようにも窺えた。
 村について語るときの口ぶりは、明らかに彼が心から懐かしんでいることが伝わってくる。トンジュの故郷に対する哀惜の念は相当強い根深いものがあるだろう。

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