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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

 やわらかい風が後頭部で纏めた髪を揺らす。サヨンは頭上を見上げた。トンジュと心が通い合ったと感じた翌朝、サヨンは髪を上げた。これまでは垂らしていた三つ編みを纏めて髷を結ったのである。
 これは一般的には女性の成人、もしくは結婚したという意味を表す。もう自分は漢陽の屋敷で暮らしていた頃の自分ではない。一人前の女性になったのだ。トンジュに抱かれ、彼の〝妻〟なった。自分で髪を上げたのは、その決意の表れだった。むろん、艶やかな黒髪にはトンジュから贈られた黄玉(ブルートパーズ)の簪が煌めいている。
 もう遅いのかもしれない。だが、半月前の夜、確かに彼と束の間、心が触れあったという確信があった。あのときの心の温もりを大切にして、今度はサヨンがトンジュに温もりをあげたかった。優しさという温もりを。そして、相手に気づかれないようなさりげない優しさがあると教えてくれたのは、トンジュだった。
 大きく聳え立つ樹と樹は腕を交差するように互いに枝を張り出し、緑豊かな葉をふさふさと茂らせている。天蓋のように空を覆い隠すの樹々の隙間から、弱々しい光が洩れている。
 たとえひとすじの頼りなげな光でも、サヨンはホッと安堵の息を零した。

 三月下旬、サヨンは一人で山を下りた。トンジュが怪我をしたからだ。森に出て狩りをしている真っ最中に猪に襲われたのだ。トンジュが森に出かけるのは毎日のことゆえ、特に心配はしていなかったら、夕刻、血まみれになって帰ってきたトンジュを見たときは心臓が止まるかと思った。
 何しろ、扉を開けたときの彼ときたら、着ているパジが胸から腹部にかけて鮮血に染まっていた。サヨンが生きた心地もしなかったのも無理はない。
 幸い、見た目よりは傷は浅かった。トンジュは薬草に関しては高度の知識を有している。今や幻の村に代々伝えられてきた薬草の秘伝を知り、その処方ができるのはトンジュだけであった。トンジュの指示を仰ぎながら、サヨンは教えられたとおりに彼が取り置いた薬草を調合した。
 塗り薬は傷口に塗って包帯を巻き、飲み薬は煎じて飲ませた。怪我をした翌日からは高熱が続き、一時はどうなるかと案じたほどだった。

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