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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 ふわりと、兵庫之助の胸に抱き寄せられる。
 だが、泉水はもう抗いはしなかった。女の勘で、この抱擁に何ら性的な意味はないと判っていたからだ。それは、兄が妹を腕に抱き、慈しむのと何ら変わりはなかった。
 兵庫之助はただ深い労りと憐憫の情をもって、これまでさんざん傷ついてきた泉水を抱きしめたのだった。不思議なことに、その一瞬の抱擁で、それらの無数の疵がことごとく男の優しさで包み込まれ、癒やされてゆくような気がした。
「泣きたきゃア、泣きたいだけ泣けば良い。泣いて、全部哀しいことは洗い流すんだ。そして、きれいさっぱり忘れちまって、新しい自分に生まれ変わるんだ。多分、今のお前に必要なのは、泣きたいだけ泣くことだろうよ」
 兵庫之助は労りを込めて泉水の背をそっと撫でた。
 夜が深まってゆく。
 泉水はそれまで心の底に降り積もっていたものをすべて吐き出すかのように、ただ、ひたすら兵庫之助の胸の中で泣き続ける。
 涙は、すべての淀んだものを洗い流す。
 涙がこれまでの哀しみや屈辱に満ちた想い出を浄めてゆく。
 泉水は新しく生まれ変わるために、涙を流し続けた。兵庫之助は何も言わず、ただ泉水のしたいようにさせ、じっとそのままでいた。

 日々は、穏やかに流れていった。
 優しい日々の中で、泉水は少しずつ兵庫之助に心を寄せるようになっていった。
 けして見つかることがないと思っていたものは、実は身近な場所に潜んでいたのだ。それは、泉水がずっと探し求めていたものであった。これまで泉水は、我が身が望む愛のかたちは、到底実現不可能だと思い込んできた。
 愛していれば、惚れ合っていればこそ、男と女は求め合い、結ばれるものだと考えてきた。そして、泉水はその世の理からは外れた、はみ出し者なのだと。
 しかし、真実を知ったあの夜以来、兵庫之助は二度と泉水に触れようとはしなかった。
 芽生えた信頼は、ほのかな好意から、淡い恋に育ってゆく。
 そんなある日のこと、暦は既に文月の終わりに差しかかろうとしていた。

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