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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第32章 変化(へんげ)

「奥方さま、僭越ながら、私は、それは奥方さまの思い違いかと存じまする。殿はお方さまをあまりにも深く愛しすぎておられるのです」
「止めよ、そのような話は聞きとうない」
 泉水が一喝しても、脇坂は今度は怯まなかった。
 脇坂の口調が再び改まった。
「実は、それがしが今日、失礼も顧みず突然お訪ねしたのは、その事について奥方さまにお願いがありましたゆえにございます」
「私に、願いとな?」
 泉水が眼を見開く。
「奥方さまも既にお聞き及びかとは存じますれど、事がお家の大事にも拘わるだけに、あまり大きな声では申し上げることはできませぬが」
 脇坂の声がやや低くなった。
「殿の不遇なるお生まれお育ちは、私もよう存じております。殿がおん歳三歳の砌、この私が先代の殿より傅育係を命ぜられ、不肖ながら今日まで殿にお仕え参らせてきました。殿が意に添わぬながらも、女色に溺れる暗君のふりを装っておられることも存じており申した。おん幼きときから一途にお慕いあそばされたお父君―先代泰久公が実のお父君ではないとお知りになられてからの、殿のお苦しみようは傍で見ておる者が辛くなるようにござりました。そのお淋しき殿を深い孤独と懊悩の底からお助けた参らせたのは奥方さまにございます。奥方さまという最愛の女人を得られ、殿はお変わりになられた」
 泉水の脳裡に懐かしい日々が蘇る。
 泰雅が思いもかけず、将軍家のご落胤だと知ったときの愕きと衝撃。しかし、泉水が何より案じたのは、その出生の秘密ゆえに、実の母に疎まれながら成長した泰雅の心の痛手であった。
 思えば、あの頃が泉水にとっては最も幸せな時代だったのだろう。けして長くはなかった泰雅との結婚生活の中で、泰雅を心から愛していたと胸を張って言えるときに相違ない。互いを求め合い、必要とし合っていた瞬間だった。
 あの後、二人の心は少しずつすれ違い、いつしか運命の歯車は二人を二度とは相容れぬ場所へと遠く引き離してしまったのだ。
「脇坂どの。その話はもう止めて―」
 言いかけた泉水に、脇坂が真顔で首を振った。その真摯なまなざしに、泉水は息を呑む。

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