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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第30章 花惑い

「もとより、この数ならぬ身はいかようになったとしても構いはしませぬ。ただ、奥方さまが殿の御意に逆らわれた場合、私ばかりか、月照庵の光照尼さま、ひいては月照庵までにお咎めが及ぶことにあいなりまする。それでよろしければ、お望みどおり、どうぞこの場で見事にご自害あそばれませ」
 他の者が聞けば、蒼白になって止めるところであったが、河嶋は平然と言い放つ。
「―」
 泉水は茫然と差し出された懐剣を見つめ。
 やがて、フッと笑った。
 その場の緊迫した空気がふっと緩む。
「そなたには負ける。河嶋」
―流石は、あの殿をお育てした乳母よの。
 その科白は辛うじて呑み込んだ。
 泰雅は生まれながらに英邁で、機知に富んだ人柄であった。現に、泉水を失うまで、泰雅はわざとうつけのふりをし、女道楽に現を抜かしていたのだ。それは前将軍の息子として生まれた泰雅が将軍家の家督相続に巻き込まれぬために懸命に考え出した苦肉の策であった。
 泰雅ほどの男を育て上げた乳母ならではの気骨と度胸、機転はやはり、並々ならぬものがあるようだ。情報通でやはり機転のきいた時橋は河嶋とは正反対で、女性らしい細やかな心配りで泉水を優しく包み込んだ。その優しさに、いかほど癒やされたことだろう。
「奥方さま、ご無礼の段は承知で申し上げまする」
 河嶋がその場に膝をついた。何事かと泉水が訝しげに河嶋を見る。
「私には奥方さまのお心が判りかねます」
「私の心が―判らぬとな」
 予期せぬ言葉に、泉水は眼をまたたく。
「はい」
「それは、いかようなる意味か」
「は、されば、斟酌なく申し上げまする。奥方さまはお幸せにおなりになろうと思し召されれば、幾らでもお幸せになれるべき御身。なのに、なにゆえ、そうまで頑なにおなりになられるか、そのお心が私には判りませぬ」
「そなたには、私が意地を張っておるように見えるのじゃな」
 泉水は茫然と呟く。誰も泉水の気持ちを理解しない。いや、理解しようとしても、理解できない。
 いつだったか、夢売りの夢五郎こと藤原頼房が泉水に語った科白が今更ながら思い起こされる。

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