テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第30章 花惑い

 というのも、うっかり泰雅の気に障ることでもしでかせば、忽ちにして機嫌を損じ、その場でお手討ちにされるかもしれいからだ。
―殿は奥方さまを失われたあまり、狂うてしまわれた。
 そんな噂が真しやかに邸内で流れていることを、脇坂とて知らぬわけではない。折に触れては家臣や奥女中たちにも厳重に箝口令を敷いたものの、人の口に戸は立てられない。
 榊原家に古くから仕える重臣たちの中にも、泰雅のあまりに酒浸りの暮らしぶりに露骨に眉をひそめていた。いつしか、家臣たちの心は泰雅から離れ、いまだ幼き世継黎次郎に期待をかけるようになった。
 対面を申し込んできた脇坂に逢うには逢ったものの、泉水は最後までひと言も発しなかった。脇坂が泉水との約束を律儀に守り、黎次郎の養育ひと筋に打ち込んできたことは判ったし、そのことに感謝はしたものの、今はこの屋敷内の人々とは誰であれ話をする気にはならなかった。
 泉水は小さな吐息を零すと、視線をゆっくりと動かす。この部屋は以前、泉水が暮らしていた懐かしい部屋である。十畳と続きの間がふた部屋、殊に泉水の部屋となる居間は女性の住まいらしく瀟洒な飾り付けがなされており、欄間などにも透かし彫りで天女が彩雲をたなびかせて舞う様が精緻に描かれている。襖は泉水の好む四季の花々―桜、紫陽花、桔梗、白椿がそれぞれ描かれている。
 細部にまで細やかな心遣いがなされた部屋は居心地も良く、最初の頃は、この部屋にいるだけで寛げたものだ。それが、泉水にとっては、けして逃れることのできない贅を凝らした美しい牢獄と化したのは、いつのことだったか。更にこの奥の小座敷が夜毎、泰雅が訪れた際に夫婦で過ごす寝所になった。ここで泉水は毎夜、泰雅に抱かれたのだ。あれは思い出すのも忌まわしい、地獄の日々であった。
 二度とあの日々には還りたくない。そう願い、この屋敷を出たのに、結局、泉水はまたこの美しき牢獄に戻ってくる宿命(さだめ)であったらしい。泉水は緩慢な動作で、室内を見回してみる。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ