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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

「―」
 光照はしばらく無言で泉水を見つめていた。泉水の傍らに控える時橋があっと息を呑む。時橋としては、いつも泉水の傍にいながら迂闊にも泉水が突然出家したいと言い出すとは考えてもいなかったのだ。いずれ仏門に入りたいという意思があるのは心得ていたけれど、それはまだまだ先のこととどこかで楽観的に考えていた節があった。
「おせんどのの御仏に仕えたいというお気持ちは尊(たつと)いものだと考えます。さりながら、今の私には、おせんどのが焦っているようにも見えます」
「私が焦っていると?」
 泉水は予期せぬ師の言葉に、眼を見開く。
 光照は変わらず柔和な微笑を浮かべたまま頷いた。
「まるで何かに急き立てられているかのような―、追い立てられ、それゆえに心逸らせているような気がするのですよ」
 泉水はうつむき、唇を噛みしめた。
 自分では全く自覚してはいなかったが、光照にはそのように見えていたのだろうか。
 これでは剃髪し、正式な弟子となることなぞ許されようはずがない。尼となるには、我が身はまだまだ未熟すぎる。師に真正面とそう言われたような気がして、泉水は眼の前が真っ暗になった。
「そなたはまだ若い。我が身が仏門に入りながら、そなたにこのようなことを言うのは筋違いかもしれませぬが、私は、おせんどのが道を選ぶのに今少し、刻をかけてもよいのではないかと思います」
「それは、剃髪するのは諦めよとの仰せにございますか!?」
 光照の声音はあくまでも静かだ。対する泉水は内心の動揺と焦りは隠せない。光照を見上げる黒い瞳に悔し涙さえ滲ませている。
「何もそのようなことは申してはおりませぬ。されど、出家するということは、そなたが考えておるほど容易いものではない。この世のすべてを捨て、大切な人との縁(えにし)を絶たねばならぬのです。恩愛の情をきれいに捨て去るということは、なかなかに難きことなのですよ。今のおせんどのに果たしてそれができますか?」
 恩愛とは親子や夫婦の情を意味する。泰雅への想いはとうに捨て去っていたけれど、我が子黎次郎への情はいかにしても捨て去れるものではなかった。

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