
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第28章 出家
《巻の参―出家―》
黎次郎がいなくなってから、山の寺は随分と静かになった。朗らかな泉水が沈み込んでいることが多くなり、夜などは余計に侘びしさが増す。夜、早々と床に潜り込んだ泉水の耳に梟の啼き声がいかにも淋しげに響く。そんな夜は、大抵、枕に顔を押しつけて一人でこっそりと泣いた。
それでも、ひと月、ふた月と経つ中には、心は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。少なくとも内側の疵は癒えずとも、外側だけは元どおりになり、泉水は以前の明るさを取り戻しつつあった。ゆえに、まさか泉水がそのような願いを光照にするとは、時橋ですら考えてもいなかった。
水無月に入ったばかりの朝、泉水は朝の勤行の後、光照に頼み事をした。
尼僧になるべく修行を始めてはや一年余りが過ぎ、泉水の読経もかなり上達した。光照と共に唱和する声には最早、初めの頃のつたなさはない。教典の解釈も元々利発な泉水は乾いた砂に水が滲み込むように憶えていった。あと二、三年もすれば、一人前の尼僧になれると光照もひそかに愉しみにしていた。
いつものように、静かな堂内に浄らかな二人の声が響き渡る。泉水の傍らには時橋も端座して、こちらは経こそ唱えてはおらぬけれど、きちんと手を合わせている。
「ぎゃうていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃていぼじそわか、般若心経」
ふっと経を唱える声が止んだ。最後の一文を唱え終え、光照がゆるりと振り向く。
「それでは、今朝はこれにて。どなたさまもご苦労さまでございました」
いつも読経の後、光照はこうやって泉水と時橋をねぎらう。その後、二人が頭を下げ〝ありがとうございます〟とお礼を述べる。そのやりとりがあって、初めて朝の勤行が終わるのだ。
「ありがとうございます」
時橋と泉水が声を揃え、頭を低くする。
その直後、泉水が弾かれたように顔を上げた。
「庵主さま、お願いがございます」
「はて、そのように思い詰めた顔をして、一体、何事ですか?」
光照がやわからな微笑を湛え、こちらを見つめている。泉水は両手をつかえ、真っすぐに光照を見上げた。
「私を剃髪させて頂きたいのでございます」
黎次郎がいなくなってから、山の寺は随分と静かになった。朗らかな泉水が沈み込んでいることが多くなり、夜などは余計に侘びしさが増す。夜、早々と床に潜り込んだ泉水の耳に梟の啼き声がいかにも淋しげに響く。そんな夜は、大抵、枕に顔を押しつけて一人でこっそりと泣いた。
それでも、ひと月、ふた月と経つ中には、心は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。少なくとも内側の疵は癒えずとも、外側だけは元どおりになり、泉水は以前の明るさを取り戻しつつあった。ゆえに、まさか泉水がそのような願いを光照にするとは、時橋ですら考えてもいなかった。
水無月に入ったばかりの朝、泉水は朝の勤行の後、光照に頼み事をした。
尼僧になるべく修行を始めてはや一年余りが過ぎ、泉水の読経もかなり上達した。光照と共に唱和する声には最早、初めの頃のつたなさはない。教典の解釈も元々利発な泉水は乾いた砂に水が滲み込むように憶えていった。あと二、三年もすれば、一人前の尼僧になれると光照もひそかに愉しみにしていた。
いつものように、静かな堂内に浄らかな二人の声が響き渡る。泉水の傍らには時橋も端座して、こちらは経こそ唱えてはおらぬけれど、きちんと手を合わせている。
「ぎゃうていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃていぼじそわか、般若心経」
ふっと経を唱える声が止んだ。最後の一文を唱え終え、光照がゆるりと振り向く。
「それでは、今朝はこれにて。どなたさまもご苦労さまでございました」
いつも読経の後、光照はこうやって泉水と時橋をねぎらう。その後、二人が頭を下げ〝ありがとうございます〟とお礼を述べる。そのやりとりがあって、初めて朝の勤行が終わるのだ。
「ありがとうございます」
時橋と泉水が声を揃え、頭を低くする。
その直後、泉水が弾かれたように顔を上げた。
「庵主さま、お願いがございます」
「はて、そのように思い詰めた顔をして、一体、何事ですか?」
光照がやわからな微笑を湛え、こちらを見つめている。泉水は両手をつかえ、真っすぐに光照を見上げた。
「私を剃髪させて頂きたいのでございます」
