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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

 泉水は宗竹の置いていった夕顔を眺めた。
 白い花は、きれいだけれど、どこか淋しげで儚げだ。まるで華奢な女が白い着物を身に纏っている姿を彷彿とさせる。
「―おさよ、おさよ」
 誠吉の声が耳を打ち、泉水は現実に引き戻された。
 弾かれたように面を上げると、誠吉の困惑した顔が眼に入った。
「やっぱり、この名前、馴染めねえのかな。俺がいつ呼んでも、まるで知らんぷりだ」
「ごめんなさい。お花がきれいだったから、つい見惚れてました」
 咄嗟に言い訳めいたことを言ってしまった。そんな泉水を誠吉は複雑そうな表情で見ている。
「お前は、どうなんだ?」
「え?」
 唐突に訊ねられ、泉水は首を傾げた。
 誠吉は笑った。だが、その笑いはとても淋しげに見える。まるで、宗竹のくれた夕顔の花のように儚い微笑だった。
「先生が言ってたように、帰りてえのか、お前を待ってる人たちのところに。おさよ、俺は何度も言ってるように、お前がずっとここに居たって、一向に構わねえ。いや、むしろ、ずっと居て欲しいと思ってる。今のままで、〝おさよ〟としてここで新しく生き直すことはできねえのか」
「―」
 泉水は唇を噛みしめた。
「夜眠ると、いつも夢を見るんです。辺りは一面の真っ暗闇で、私はその闇の中を一人で歩いてる。でも、どこまで歩いても、闇の中を抜け出ることはできない。闇の彼方から誰かが私を呼んでいるのに、私はその人のところに行けないんです。何とかして行きたいのに、どうしても行けません。誠吉さん、私はその人の許に帰りたい。多分、私には家族がいたと思うんです。その私を呼ぶ人が私の何なのか、もしかしたら親なのかもしれないし、兄弟なのかもしれません。だとしたら、私はその人たちのところに帰りたいんです」
 暗闇の向こうから自分を呼ぶ人が誰なのか。泉水には判らない。自分の名前、住んでいた場所さえ思い出せないのだ。でも、自分を呼び続けている人が、かつて自分にとって大切な存在であったことだけは判る。
 ならば、泉水は帰りたい、その大切な人の許に、自分を待ち続けているだろう人の傍に帰りたいと思わずにはおれない。

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