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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

「お前って、変わってるな。とんでもねえお人好しっていうか、何というか。普通なら、こんな時、自分を轢き殺そうとした相手の肩なんか持たねえぜ」
 泉水は何と応えて良いものやら判らず、曖昧に微笑んだ。
「とにかく、生命があって良かった。俺は誠吉。まだ駆け出しの職人さ。あんたは?」
 誠吉と名乗った男が泉水を見つめた。
「私、私は」
 泉水は言いかけて、言葉を失った。
 誠吉が訝しむように見つめてくる。
「名前だよ、名前。何せ五日もの間、意識がなかったんだ。お前の家族が探し回ってるんじゃないのか? とりあえず番所には届けておいたが、ここのところ特に家出人やゆく方知れずの届け出は出てはいねえってことだ」
 泉水の声が震えた。
「思い―出せない」
「ええッ?」
 男が素っ頓狂な声を上げた。
 泉水は両手で顔を覆った。必死で思い出そうとしてみるけれど、何も浮かんでこない。
 自分が事故に遭ったときのことだけは憶えているのに、その前後―これまでのこと、どこで何をしていたのか、何という名なのか、家族はどこに住んでいるのかといった諸々のことを何も憶えていないのだ。
「名前、名前―」
 うわ言のように呟き、懸命に記憶の糸を血手繰り寄せようと試みるが、まるで五日前のあの瞬間にプツンと断ち切られたかのように記憶がつながらない。
 涙が溢れそうになった。
「おい、落ち着きなよ。さっきも言っただろう、お前は五日間眠りっ放しだったんだ。そんなに焦って何もかも思い出そうとしても無理だ。俺はおを見た時、最初は男だと思ったんだ。どこかのお武家の我がまま息子―もとい、若さまかなと思った。腕に抱いた時、こいつは女だとすぐに判った」
 泉水はハッとした。今着ているのはあの時、着ていた小袖や袴ではない。きちんと洗濯はしてあるが、粗末な女物の浴衣だ。
 ということは、もしや、この誠吉という男に何もかも見られていた―?
 衝撃と狼狽が泉水を混乱させた。
 泉水の想いに気付いたのか、男の眼の縁がかすかに赤らんだ。

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