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夢のうた~花のように風のように生きて~

第4章 運命の邂逅

 あそこにいれば、これからもずっと定市にあんな目に遭わされるかもしれない。それは考えただけでも怖ろしいことだった。定市に二度と触れられたくない。あんな辛い想いをしたくない、その一心で身体の節々が痛むのに耐えて、美濃屋を出てきたのだ。
 とにかく定市から少しでも遠くへ逃げたかった。夢中で歩いている中に、気が付いたら江戸の町の外れまで来ていた。そこで疲れ切って、意識を手放してしまったのだ。そして、次に目覚めたときには、徳松の家にいた―。
 たとえ美濃屋を出たとて、お千香は人別帳では定市の女房として名前が記されており、美濃屋の内儀であることに変わりはない。徳松には我が身の身の上について何も話してはいなかった。それでもなお、徳松は何も訊こうとはせず、お千香を家に置いてくれたのだ。
 こんな状態で、徳松と所帯を持つことは難しい。それに、定市にさんざん穢されたこの身体では、大好きな徳松に申し訳ないという想いがあった。恐らく徳松は、お千香が犯されたという事実を知っているに相違ない。徳松のことだから、そのことについて一度たりとも触れたことないけれど、初めて徳松の家で目覚めた日、徳松の口ぶりでは明らかに知っているようだった。
 もう一つ、お千香の身体の秘密がある。これについも多分、徳松は知っているだろう。徳松はお千香を診察した医者の話をすべて聞いていると話していた。男でもなく女でもない―、思いがけず定市が父政右衛門の遺言を破ることになり、お千香は初めて自分が男と夫婦の契りを結べることを知った。
 だが、こんな不完全な身体で徳松の妻になっても良いのだろうか。そんな戸惑いがあるる。
 お千香の眼に涙が溢れた。
―こんなに好きなのに。やっと大好きな男にめぐり逢えたのに。
 半年前のあの夜なんて、消えてなくなってしまえば良いのにと思った。大店の娘になんて生まれたくなかった。男でも女でもない我が身を昔は化け物のように思って、ひたすら恥じてきたのだ。徳松にふさわしい、ちゃんとした普通の娘に生まれていれば、こんなにも迷うことはなかっただろう。
 お千香が涙に濡れた眼をあてどなくさまよわせた時、細く開いたままの表の腰高障子が力一杯引かれた。
「徳松さん?」
 お千香の顔が歓びに輝いた。
 が、次の瞬間、現れた男を見て凍りついた。
「―」

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