
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第3章 幻の村
しかし、穏やかに流れているように見える日々の中、時にトンジュがあの瞳―燃えるようなひたむきさで自分を凝視していることがあった。
あの思いつめたまなざしを意識する度、サヨンは怖くなって、トンジュの眼の届かない場所に逃げた。
二人が共に暮らし始めて、ひと月が経ったある日のことである。
その朝、朝飯を食べながら、トンジュが言った。
「今日は一日、遠くまで出かけるつもりですが、一人で大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫よ。心配しないで」
サヨンは雑炊を掬っていた手を休め、トンジュを見た。
「―こんなことを言いたくはないのですが、まさか逃げ出したりはしませんよね」
トンジュが探るような眼で見つめている。
サヨンは笑って首を振った。
「どうせ逃げ出したって、すぐに道に迷っちゃうんでしょ。何しろ、この森ときたら、海のように深くて、どこがどこに続いているかさえ判らないんだもの。私だって、生命は惜しいの。無駄死にしたくはないし、白骨死体になるのはご免蒙りたいのよ」
「それなら良いのですが。笑っている場合ではありませんからね。もしかしたら、サヨンさまは俺が脅しているだけだと思っているのかもしれないけど、この森は本当に危険なんです。よく知らない人が迂闊に入り込めば、絶対に迷います。くれぐれも早まったことだけは考えないように」
「一つだけ訊いて良い?」
「何ですか?」
トンジュは早くも食べ終えたようだ。雑炊の入っていた器と木匙を重ねて立ち上がろうとしている。
「トンジュは今日、どこに行くの?」
「俺のことが気になります?」
トンジュがどこか嬉しげに言う。
サヨンは狼狽して、つい声がうわずった。
「な、何を言うのかと思ったら。トンジュは少し自意識過剰なのよ。私はただ、遠くって聞いたから、どこまで行くんだろうと思って」
トンジュが笑った。
「麓の町ですよ。だから、今から出れば夜には戻れます。良い子で留守番していて下さいね」
まるで駄々をこねる妹を宥める兄の口調そのものである。
あの思いつめたまなざしを意識する度、サヨンは怖くなって、トンジュの眼の届かない場所に逃げた。
二人が共に暮らし始めて、ひと月が経ったある日のことである。
その朝、朝飯を食べながら、トンジュが言った。
「今日は一日、遠くまで出かけるつもりですが、一人で大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫よ。心配しないで」
サヨンは雑炊を掬っていた手を休め、トンジュを見た。
「―こんなことを言いたくはないのですが、まさか逃げ出したりはしませんよね」
トンジュが探るような眼で見つめている。
サヨンは笑って首を振った。
「どうせ逃げ出したって、すぐに道に迷っちゃうんでしょ。何しろ、この森ときたら、海のように深くて、どこがどこに続いているかさえ判らないんだもの。私だって、生命は惜しいの。無駄死にしたくはないし、白骨死体になるのはご免蒙りたいのよ」
「それなら良いのですが。笑っている場合ではありませんからね。もしかしたら、サヨンさまは俺が脅しているだけだと思っているのかもしれないけど、この森は本当に危険なんです。よく知らない人が迂闊に入り込めば、絶対に迷います。くれぐれも早まったことだけは考えないように」
「一つだけ訊いて良い?」
「何ですか?」
トンジュは早くも食べ終えたようだ。雑炊の入っていた器と木匙を重ねて立ち上がろうとしている。
「トンジュは今日、どこに行くの?」
「俺のことが気になります?」
トンジュがどこか嬉しげに言う。
サヨンは狼狽して、つい声がうわずった。
「な、何を言うのかと思ったら。トンジュは少し自意識過剰なのよ。私はただ、遠くって聞いたから、どこまで行くんだろうと思って」
トンジュが笑った。
「麓の町ですよ。だから、今から出れば夜には戻れます。良い子で留守番していて下さいね」
まるで駄々をこねる妹を宥める兄の口調そのものである。
