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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第5章 第二話〝烏瓜(からすうり)〟・其の壱

 将軍家にも縁の深い徳川御三家筆頭、尾張藩主の妻。身を綺羅で飾り、美々しい調度に囲まれて過ごしてはいても、心はいつも空しく、ここは美空にとっては美麗な牢獄でしかない。無性に帰りたい、生まれ育った裏店に戻りたいと思うときがあった。お喋り好きで気の好いお民や、いつもお民に小言を喰らってばかりの左官の源治。慣れ親しんだ徳平店の住人たちが懐かしい。
「ご簾中さま」
 唐突に背後で呼びかけられ、美空はハッと我に返った。
 振り向けば、奥女中の智島が気遣わしげな表情で畏まっていた。
「いかがあそばされましたか」
 この智島は尾張家に古くから仕える重臣柏本(かしもと)修理(しゆり)之(の)助(すけ)忠治の娘である。歳は二十一、十八の美空より三歳年長だ。十六の歳、やはり尾張家に仕える家臣に嫁いだが、あまりの気の強さに辟易した良人に離縁されて実家に戻ってきたという経緯があった。が、その真相は、優柔不断で、いつも母親―智島にとっては姑の顔色ばかり窺っているような男に智島の方が愛想を尽かしたらしい。
 わずか半年にも満たない結婚生活の後、上屋敷にご奉公に上がり、今日に至っている。元々、家庭に入り妻、母となるよりは御殿奉公をする方が性に合っていたと見え、めきめきと頭角を表し、今では若い奥女中たちを束ねる中老という役職に就いていた。その智島がご簾中付きとなったのは美空がこの上屋敷に迎えられた直後のことで、以来、智島は美空の唯一無二の相談役に徹してきた。
 智島の存在がなければ、美空は周囲から向けられるあまりの悪意ある視線に、とうにこの上屋敷から逃げ出していたかもしれない。
「いや、大事ない」
 美空はそう応えると、淡く微笑んだ。
 そのいかにも儚げな微笑に、智島はハッと胸を突かれたような顔になる。この年若いご簾中自身はは自覚してはいないのだろうが、雨に打たれた花のような風情がある。可憐さの中にも、その雨にも負けぬようなしなやかな強さを感じさせるものがある。女の自分でさえ、そういった魅力に気付くのだから、殿がこのご簾中に夢中なのも納得はできる気がするのだけれど。

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