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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第3章 其の参

 今朝、寝坊して弁当が作れなかったことも、美空の体調の悪さと無関係ではないだろう。しきりに謝る妻に、孝太郎は笑って構わないのだと言ってやった。昼飯を食べに帰ったついでに、恋女房の顔だって見られる。そう思い、孝太郎は一人で含み笑う。
 全っく、今の自分ときたら、美空に腑抜けの有り様だ。初めて出逢ってからひと月後にはこの女しかいないと結婚を決め、今、新婚三ヶ月、孝太郎は幸福だった。
 狭苦しい我が家ではあるが、惚れた女と共に過ごす日々は至福のものに思えた。
―美空は俺の宝だ。
 臆面もなく、そう思う。
 川端の柳が浅い緑色の葉を時折、吹く風に揺らしている。川の色はまだ冷たかったが、降り注ぐ光は確かに春の穏やかさに溢れていた。
 和泉橋を渡り終え、徳平店に向かって歩き出した時、向こうから人気のない小路を息せききって走ってくる人影を認めた。
「おっ、孝太郎さん。良かった、俺ァ、今、あんたを探してたところなんだ。大変なんだよ」
 大声で喚きながら近寄ってくるのは同じ長屋に住む左官の源治である。
「どうしたんですか、源さん。何かあったのかい?」
 孝太郎も負けないように大きな声で返すと、源治がコクコクと頷いた。
「おかみさんが―、美空ちゃんが」
 孝太郎の顔色が変わった。源治に皆まで言わせぬ中に、孝太郎は韋駄天のような勢いで徳平店に向かって走っていた。
 徳平店まで猛烈な速さで走りに走った孝太郎は荒い息を吐きながら、我が家に入った。
 後ろからついてきた源治が気を利かせて、土間の水瓶から柄杓で水を汲んで手渡してくれる。それを引ったくるように奪い、孝太郎はひと息に水を呑んだ。
 冷たい感触が喉を通り過ぎてゆく。漸く生き返った心地がして、小さく息をついた孝太郎の背中越しに破(や)れ鐘のような怒声が響いてきた。
「ちょっと、あんた。何を呑気に水なんか呑んでるんだよ?」
 その凄まじい声に孝太郎が振り向くと、お民が眼をつり上げて仁王立ちになっていた。
「女房が生きるか死ぬかってえいうときに、そんな場合じゃないだろう?」
 その言葉に、孝太郎は草履を脱ぐのももどかしく畳に上がり、美空の枕辺に座り込んだ。

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