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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

「おい、姐さん。走るなよ、走るなってば」
 夢五郎の慌てた声が追いかけてくるが、泉水は頓着せず走った。そのままの勢いで時橋の腕の中に飛び込む。
「逢いたかった、時橋、逢いたかった」
 泉水は、時橋の胸に顔を押しつけて泣きじゃくる。
「私もお逢いしとうございましたよ、姫さま」
 時橋の声もかすかに震えていた。
「ごめんなさい、時橋、勝手に私が屋敷を飛び出してしまったせいで、そなたが泰雅さまからお咎めを受けているのではないかと心配していたの。辛い想いをさせてしまっているのではないかと、それだけが気がかりだった」
 泣きながら言うと、時橋は淡く微笑した。
「いいえ、そのようなこと、何ほどのこともございませぬ。いつかまた姫さまとお逢いできるとお信じ申し上げておりましたゆえ、何を言われても私、平気でございました」
 現実には、確かに泉水の失踪直後は泰雅からそのゆく方について問われ、厳しい詮議を受けた。その後も何度嫌みを言われたか知れない。それでも、時橋は榊原の屋敷に居続けることを選んだ。
「姫さまは相変わらず泣き虫でいらっしゃいますねえ?」
 時橋が明るい声音で言う。泉水はひとしきり泣いた後、恥ずかしげに頬を染めた。
「だって、久しぶりにそなたに逢ったのだもの、致し方ないではないか」
「姫さま、よくお顔を見せて下さりませ」
 時橋が言うと、泉水は頷いた。
「おい、姐さん。私は水を汲んで、一足先に寺に戻ってるよ。住職と伊左久爺さんには事情は話しておく。積もる話があるだろうゆえ、ゆっくりとして来れば良い」
 少し離れた場所で夢五郎が手を振りながら叫ぶ。
「ありがとうございます」
 泉水は夢五郎に深く頭を下げた。
 本当にあの男にはどれほど感謝しても足りないくらいだ。冬の夜、この川に入ろうとしていた泉水を救い、今また時橋をここに連れてきてくれた。泉水が誰よりも逢いたいと願っていた時橋を。
「あのお方、夢五郎さまとおっしゃるのですね。初めてお逢いしたのは、まだほんの二、三日前なのに、不思議な存在感のある方にございますね」
 時橋が山道を去ってゆく夢五郎の後ろ姿を見送りながら言う。それから時橋は自分が夢五郎にここまで連れてこられた経緯を話し聞かせた。

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