
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第19章 すれちがい
泰雅の日毎に深まってゆく寵愛は、どこか人々が眼を背けたくなるような執佞(しゆうねい)さ、陰湿さがあった。
「お方さま、どうかもうお嘆きあそばされませぬように。私は何があったとしても、お方さまをお信じ申し上げておりますゆえ、そのようにお哀しみなさらないで下さりませ」
―殿もいつかはきっと、お方さまのお心を察して下さいましょう。それゆえ、お心を安んじて、その日をお待ち致しましょう。
そう言ってやれることができれば、時橋はどんなに良かったろう。しかし、この際、安易な慰めの科白は口にはできない。時橋には、そんな日が来るとは思えなかったからだ。泉水の潔癖さと泰雅の烈しすぎる愛がかみ合うことはないだろう、そんな予感がした。
「時橋、いつぞや家老の脇坂が申しておった件―殿に側室をお勧めるする話はどうなったのであろうか。いっそのこと、殿が新しい女子に眼を向けて下されば、私はもうお寝間を辞退できるのではないか」
今から半年前のこと、泉水の許に家老脇坂倉之助が訪ねてきたことがあった。結婚後一年余りを経ても一向に懐妊の兆候がない泉水の他に、泰雅に新たな侍妾を持たせてはどうか、という意見が表の重臣一同の間でしきりに取り沙汰されているという。
脇坂はその皆の意見をとりまとめ、泉水に打診に来たのだ。つまり、泰雅に直接その話をする前に、正室である泉水の立場や心中を慮り、知らせにきたのだ。
その心遣いに、泉水は素直に感謝した。いくら今を時めく勘定奉行の娘とはいえ、榊原家に嫁した今、泉水はこの家の人間だ。嫁して一年を過ぎても一向に身ごもることもない身を思えば、泰雅が重臣たちに勧められて側女を持った後に〝事後承諾〟という形で知らされても、文句は言えない。
それなのに、事前に話を通してくれたことに、ありがたいと思った。が、この儀は結局沙汰止みになった。何より、泰雅自身が泉水以外の女に眼を向けようとしないのだ。
当時、泉水にしろ時橋にしろ、泰雅のその気持ちをこの上なく嬉しいことだと思ったのに―。そのことがたったの半年前の出来事とは思えないほどに、泉水を巡る状況は一転してしまっている。
泉水は良人に側室を勧めてまで、夜を共に過ごすことから逃れようとしている。今でもまだ良人を愛していると言いながらも、その惚れた男に侍妾を持つように勧めねばならぬほど、泉水の心は追いつめられているのだった。
「お方さま、どうかもうお嘆きあそばされませぬように。私は何があったとしても、お方さまをお信じ申し上げておりますゆえ、そのようにお哀しみなさらないで下さりませ」
―殿もいつかはきっと、お方さまのお心を察して下さいましょう。それゆえ、お心を安んじて、その日をお待ち致しましょう。
そう言ってやれることができれば、時橋はどんなに良かったろう。しかし、この際、安易な慰めの科白は口にはできない。時橋には、そんな日が来るとは思えなかったからだ。泉水の潔癖さと泰雅の烈しすぎる愛がかみ合うことはないだろう、そんな予感がした。
「時橋、いつぞや家老の脇坂が申しておった件―殿に側室をお勧めるする話はどうなったのであろうか。いっそのこと、殿が新しい女子に眼を向けて下されば、私はもうお寝間を辞退できるのではないか」
今から半年前のこと、泉水の許に家老脇坂倉之助が訪ねてきたことがあった。結婚後一年余りを経ても一向に懐妊の兆候がない泉水の他に、泰雅に新たな侍妾を持たせてはどうか、という意見が表の重臣一同の間でしきりに取り沙汰されているという。
脇坂はその皆の意見をとりまとめ、泉水に打診に来たのだ。つまり、泰雅に直接その話をする前に、正室である泉水の立場や心中を慮り、知らせにきたのだ。
その心遣いに、泉水は素直に感謝した。いくら今を時めく勘定奉行の娘とはいえ、榊原家に嫁した今、泉水はこの家の人間だ。嫁して一年を過ぎても一向に身ごもることもない身を思えば、泰雅が重臣たちに勧められて側女を持った後に〝事後承諾〟という形で知らされても、文句は言えない。
それなのに、事前に話を通してくれたことに、ありがたいと思った。が、この儀は結局沙汰止みになった。何より、泰雅自身が泉水以外の女に眼を向けようとしないのだ。
当時、泉水にしろ時橋にしろ、泰雅のその気持ちをこの上なく嬉しいことだと思ったのに―。そのことがたったの半年前の出来事とは思えないほどに、泉水を巡る状況は一転してしまっている。
泉水は良人に側室を勧めてまで、夜を共に過ごすことから逃れようとしている。今でもまだ良人を愛していると言いながらも、その惚れた男に侍妾を持つように勧めねばならぬほど、泉水の心は追いつめられているのだった。
