
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
「真のことではないか。母上さまは私が五歳の折、身まかられてしもうた。私には最早〝母〟と呼べる人はおらぬ。されど、時橋は私にとって生涯変わらぬ心の母、真の母上よ」
時橋がつと顔を上げる。
「ほんに、お方さまには負けまするなあ。悪戯ばかりなさっておられるかと思えば、そのような泣かせることをお仰せになられて」
「何じゃ、その悪戯ばかりとは。私はもう童ではないぞ?」
「さようにございますか? つい先日、お庭の樹に登っておられたのは、どこのどなたでございましょうね?」
数日前、実に久しぶりに―これはけして言い訳ではないが、樹登りをしたのは実に三ヶ月ぶりだった―庭の樹に登ったところを、運悪しく時橋に見つかってしまい、例のごとく大目玉を喰らった。
叱られる度に、流石にもう止めようとは思うのだけれど、あの爽快感は忘れられない。樹に登って蒼空を眺めているだけで、何もかも忘れられるのだ。
「そ、それは」
口ごもる泉水に、時橋が笑った。
「私としては、いつまでもそうやってお変わりなきお方さまを拝見できるのは本当は嬉しくもあるのです。こうやって、いついつまでもお方さまのお側にお仕えして、そのお幸せなお姿を見ていたいと願うております。されど、お方さま、樹登りなどなさって、万が一、御身に何かあったら、いかがされまする。ご懐妊でもなさっておられたら、それこそ一大事にございますよ」
「時橋、そのような心配なら無用じゃ。私は懐妊なぞしておらぬし、これから先も殿の御子を授かることはないのやもしれぬ」
「お方さま」
泉水には嫁いで一年余り経た今もなお、懐妊の兆がない。つい半月前にも家老の脇坂倉之助がその件で泉水の許にやって来たばかりであった。表では重臣たちがそろそろ泰雅に側室を勧め、一日も早い世継誕生を期待したいものだとしきりに話し合っているという。泰雅に側室を勧めるに当たって、脇坂は正室としての泉水の心中を推し量り、事前に承諾を得にきたのだ。
結局、そのときは泰雅にその気がないとのことで、沙汰止みにはなったが、いつまでもそのままで済むとは泉水も考えてはいない。
時橋がつと顔を上げる。
「ほんに、お方さまには負けまするなあ。悪戯ばかりなさっておられるかと思えば、そのような泣かせることをお仰せになられて」
「何じゃ、その悪戯ばかりとは。私はもう童ではないぞ?」
「さようにございますか? つい先日、お庭の樹に登っておられたのは、どこのどなたでございましょうね?」
数日前、実に久しぶりに―これはけして言い訳ではないが、樹登りをしたのは実に三ヶ月ぶりだった―庭の樹に登ったところを、運悪しく時橋に見つかってしまい、例のごとく大目玉を喰らった。
叱られる度に、流石にもう止めようとは思うのだけれど、あの爽快感は忘れられない。樹に登って蒼空を眺めているだけで、何もかも忘れられるのだ。
「そ、それは」
口ごもる泉水に、時橋が笑った。
「私としては、いつまでもそうやってお変わりなきお方さまを拝見できるのは本当は嬉しくもあるのです。こうやって、いついつまでもお方さまのお側にお仕えして、そのお幸せなお姿を見ていたいと願うております。されど、お方さま、樹登りなどなさって、万が一、御身に何かあったら、いかがされまする。ご懐妊でもなさっておられたら、それこそ一大事にございますよ」
「時橋、そのような心配なら無用じゃ。私は懐妊なぞしておらぬし、これから先も殿の御子を授かることはないのやもしれぬ」
「お方さま」
泉水には嫁いで一年余り経た今もなお、懐妊の兆がない。つい半月前にも家老の脇坂倉之助がその件で泉水の許にやって来たばかりであった。表では重臣たちがそろそろ泰雅に側室を勧め、一日も早い世継誕生を期待したいものだとしきりに話し合っているという。泰雅に側室を勧めるに当たって、脇坂は正室としての泉水の心中を推し量り、事前に承諾を得にきたのだ。
結局、そのときは泰雅にその気がないとのことで、沙汰止みにはなったが、いつまでもそのままで済むとは泉水も考えてはいない。
