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闇に咲く花~王を愛した少年~

第1章 変身

「正直な娘だ。そなたなら、見事、私の命ずる任務を果たしてくれるに相違ない」
 短い沈黙が落ちた。
 氷の針を含んだような沈黙が膚に突き刺さるようだ。場を持て余しかねて、誠恵は小卓の上の盃を手にした。黙って差し出すと、尚善もまたそれに応じる。
 徳利を掲げ、盃を満たす誠恵の顔を意味ありげに眺めながら、おもむろに尚善が口を開いた。
「そなたは先刻、嬉しいことを言って私を歓ばせてくれたが、現実は変えられぬ。私はもう五十だ。あと幾年生き存えられるか判らぬ。歳を取ると、色々なことを考え、要らざる取り越し苦労までする羽目になる。殊に気になるのは、自分が死んだ後のことだ」
 再び沈黙がひろがった。重い静けさに押し潰されたかのように、蝋燭の焔が大きく揺れ、突如として消える。
 不意に、尚善が立ち上がった。何を思ったか、部屋を大股で横切り、表通りに面した窓を開け放った。既に深夜を回り、賑やかな往来にも人影はなかった。この界隈は概ね似たような妓楼がひしめき合っているが、遊女や客も深い眠りに沈んでいる刻限だ。
 宵には遊女と甘い一夜の夢を見ようとやって来る男たちと逆に男を誘う女たちの嬌声が響き渡り、実に生き生きと活気づく。静まり返った道は、そういた喧騒が嘘のように、しんとして、まるで色町そのものが廃墟と化したかのようだ。
 尚善は食い入るように闇を見つめながら想いに耽っている。殊に、今宵は月もない淋しい闇夜であった。
 不意に尚善が酒をひと息に煽り、空になった盃を深い闇の向こうに放り投げた。盃は垂れ込めた闇に吸い込まれ、地面に落ちる乾いた音が聞こえる。
「そなたが今し方、見たものが何であるか教えてやろう」
 尚善が抑揚のない声で囁くように言った。
「あれは殺生簿だ」
「―!」
 刹那、誠恵は息を呑む。見たときからおおよその見当はつけていたものの、こうして実際に我が耳で聞くと、それは実に禍々しい響きを持って誠恵の心に深々と突き刺さる。
 薄っぺらな本には、たった二人の名前しか記されてはいなかった。つまり、この男がその二人をこの世から抹殺したいと願っているということだ。

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